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広島高等裁判所 昭和44年(う)334号 判決 1972年2月25日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

<前略>

所論は、要するに、本件においては証拠上被告人が自己運転の車両で本件被害者(以下被害者という)を轢殺したとの事実認定を不能にする数々の反対事実が存在するのであつて、被害者を轢殺したのは被告人ではないことが明らかであり、また、原判決が引用挙示する全証拠によつても、被告人の本件業務上の過失を認定する前提事実となる本件事故発生当時の被害者の所在位置、歩行の状況等その動静を明らかにすることができない以上、本件において被告人に業務上の過失があつたことを認定することはできない。いずれにしても被告人は無罪である。しかるに、被告人が大型貨物自動車を運転進行中、進路左方の注視を怠つた業務上の過失によつて、本件事故現場

進路左側付近を歩行していた被害者に気付かず、これを轢過して死亡させたものである旨認定し、被告人の被害者松本佳江に対する本件業務上過失致死罪の成立を認めた原判決は、経験則ないしは採証法則に違反し、事実を誤認し、法令の適用を誤つたものというべく、右誤が判決に影響を及ぼすことが明らかであり、原判決は破棄を免れないというのである。

よつて、所論にかんがみ、記録ならびに原審において取調べた証拠を精査し、当審における事実取調の結果をもあわせて順次検討することとする。まず所論は、種々理由を挙げて被害者を轢殺したのは被告人ではない旨強く主張するので、この点について審按するに、原審において取調べた各証拠によれば次の各事実を認めることができる。すなわち、

(一)<証拠>によれば、被害者松本佳江(昭和四〇年三月七日生)は昭和四一年九月二七日午前一一時一五分頃広島県芦品郡新市町大字宮内二、〇八一番地の二松本忠方前道路上において脳挫傷の傷害により死亡したものであること、被害者の右傷害はダブルタイヤを有する重量のある大型車両により轢過されて生じたものであり二重轢過によるものではないこと、

(二)<証拠>によれば、被告人は前記死亡事故当日の午前一一時一五分頃檜材を満載した大型貨物自動車を運転して前記松本忠方前の本件事故現場を前記新市町金丸方面(北方)から同町新市方面(南方)に向けて通過していること、

(三)<証拠>によれば、内田均運転の大型バスは本件事故発生当日の午前一一時一三分頃、前記松本忠方前の連下停留所を前記新市町新市に向けて発車し、本件事故現場を通過しているが、被害者を轢過しておらず、前記死亡事故は右バスの通過直後に発生していること、被告人は大型貨物自動車を運転して右内田均運転のバスの約一、〇〇〇メートル後方を同方向に向かつて進行し右バスより約二、三分遅れて本件事故現場を通過しており、右内田運転のバスと被告人運転の貨物自動車との中間に大型自動車はいなかつたこと、

(四)<証拠>によれば、前記事故当日、被告人運転の大型貨物自動車について血こん等の付着の有無について二回にわたり検査したところ、右自動車の左後輪ダブルタイヤの内側、外側の両タイヤに血こんが、左後輪泥除け内側に数個の肉片および血こんが、さらに右前輪泥除け内側に肉片と思われるものおよび血こんがそれぞれ付着しており、鑑定の結果、左後輪タイヤおよび左後輪泥除けに付着していた血こんは人血であり、左後輪泥除けに付着していた肉片には神経膠細胞ならびに血管があり、右肉片は人の脳漿と考えられるものであること、左後輪泥除けに付着していた右肉片と本件事故現場から採取した被害者の血液はいずれも血液型はA型の反応を示したこと、右自動車の左前輪には血こん等が付着していなかつたこと。

(五)<証拠>によれば、被告人が事故当日運転した大型貨物自動車を使用して本件現場道路を同人に運転進行させて見分したところ内輪差(前車輪が通過する地点と後車輪が通過する地点が一致すれば内輪差零、一致しなければ内輪差何センチという)が全くなかつたこと、

等がそれぞれ認められる。

以上認定の各事実をあわせ考察すると、被告人が昭和四一年九月二七日午前一一時一五分頃前記松本忠方前道路上を大型貨物自動車を運転進行中自車左後輪で前記松本佳江の頭部を轢いて脳挫傷を負わせて即時同所において同女を死亡させたものであることは明らかであつて、被害者を轢殺したのは被告人ではない旨の所論の主張はとうてい採用するを得ない。なお所論は、被告人が本件事故当日大型貨物自動車を運転して本件事故現場である前記松本忠方前を通過する際、松本方前には軽四輪自動車が停車しており、これは本件事故直後に松本方前を通りかかり、被害者を最初に発見した田原憲雄運転の軽四輪自動車であつて、このことから被告人車は本件事故発生後に本件事故現場を通過したものであることは明らかであり、その際に路上に散乱していた被害者の血液、脳漿、肉片が被告人車に付着したものである旨主張する。しかし、<証拠>によれば、被告人車が右松本方前を通過した際軽四輪自動車が同所にはたして停車していたものか否か極めて疑わしく、また仮にその際軽四輪自動車が停車していたとしても、それが所論のように田原憲雄運転の軽四輪自動車であつたことを認めるに足りる確証はない。しかのみならず、前記のように、被告人が本件事故当当日運転した大型貨物自動車で本件現場道路を通過する際その内輪差は全くなかつたこと、右自動車の左後輪タイヤ、左後輪泥除けには血こんあるいは肉片が付着していたが、左前輪には血こん等が付着していなかつたこと等が認められるのであつて、このように内輪差のない被告人車が本件事故発生後にその現場を通過して、現場の道路上に散乱していた被害者の血液、脳漿、肉片等を左前輪では轢過しないで左後輪のみで轢過することは不可能であると考えられる。これによつてみるに、被告人車は本件事故発生後その現場を通過したものであるとの所論の主張もこれを採用しがたい。

次に、所論は、仮に被告人が自己運転の車両で被害者を轢過し死亡させたものであるとしても、事故発生当時の被害者の動静が証拠上全く不明な本件においては、注意義務の内容を特定することができず、従つて被告人に注意義務すなわち過失があつたことを認容することができないから、被告人は無罪である旨主張するので、進んでこの点について判断する。

原判決は、<証拠>によつて認められる被害者の死体の所在位置を総合して、被害者は事故直前頃、独りで被害者の死体のあつた現場三差路左側進路付近を歩行していたものであると本件事故直前の被害者の動静を認定し、これを前提として原判示「罪となるべき事実」摘示の被告人の注意義務違反すなわち過失を認定していることは原判決文に徴し明らかである。しかし、原判決の挙示する右各証拠を仔細に検討してみても、またさらに記録を精査し、当審における事実取調の結果に徴しても、被告人が大型貨物自動車を運転して南進し、本件事故現場である前記松本忠方前三差路にさしかかつた際、すなわち本件事故発生の直前、被害者が、原判決認定のように、右三差路左側進路付近を独り歩行していたものであるか、はたまた自車進路左側付近に佇立していたものであるか、さらにはまた同所道路を横断しようとしていたものであるか、横断しようとしていたものとすれば、本件公訴事実記載のように自車進路同所道路左方から右方に向かつて横断しようとしていたものであるか、もしくは右道路右方から左方に向かつて横断しようとしていたものであるか等等、本件事故発生の直前における被害者の動静、状態を認めるに足る証拠は全くなく、遂にこれを明らかにすることができない。このように事故発生直前における被害者の状態が全く不明である以上、被告人が貨物自動車を運転して本件事故現場を通過するに際し、予見し回避すべき具体的危険がいなるものであつたか確定することができないものといわなければならない。そうすると、右具体的危険を前提とする本件における被告人の具体的注意義務の内容もいきおいこれを確定することができないから、本件の場合結局被告人に注意義務違反、すなわち過失があつたものと認めることができない。従つて被告人に原判示「罪となるべき事実」摘示の注意義務違反すなわち過失があつたものと認定した原判決は事実を誤認したものというべく、右誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであり、原判決はこの点において破棄を免れない。論旨は結局理由がある。

よつて刑訴法三九七条一項、三八二条に則り原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い直ちに次のとおり判決する。

本件公訴事実は、被告人は運送業を営み自動車運転の業務に従事しているものであるところ、昭和四一年九月二七日午前一一時一五分頃自己所有の大型貨物自動車(広一い二七二〇号)に檜材を満載し時速約三〇粁で芦品郡新市町大字宮内二〇八一番地の二地先県道上を新市方面に向い運転進行したが、自動車運転者たるものは進路の前方ならびに左右を十分注視し幼児その他歩行者が自車進路前方を不注意にも横断するやも測り知れず事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるにもかかわらず、これを怠り進路右方の石橋が狭隘であるためそれのみに気を奪われ進路左方の注視を怠つたため、自車進路同所道路左方より右方に向い右道路を横断歩行せんとしていた松本佳江(昭和四〇年三月七日生)に気付かず、同女を自車左側車体に接触させ、その場に転倒せしめ自車左後輪で同女の頭部を轢き同女に対して脳挫傷を負わせよつて同所において即時同女を死亡させたものであるというのであるが、前記のとおり右過失の点について証明がないから、刑訴法三三六条後段により被告人に対し無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(高橋文恵 久安弘一 寺田幸雄)

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